山蔭流創生神楽の成り立ち
山蔭流創生神楽とは、平安時代に宮中祭祀の大中臣の中心を司った神祇職祭官 、藤原山蔭を始めとします。
古代において、はじめに祝詞を創った神事宗源者である 天之児屋根 の大神の子孫が藤原氏に代表されています。中でも国家祭祀を司る代表的な存在とされている家柄が山蔭氏でした。
山蔭氏は国家、世界の大事を司る為、素養を第一として受け継がれ、勅命により代々霊統継承を歴史としています。
山蔭流には秦始皇帝からの血脈へとつながり、後の百済、阿智王を経て以降、近江王朝の和爾王へと繋がります。アジア大陸伝来の宇宙哲学を含有し、「ホツマツタヱ」「ミカサフミ」「竹内文書」等に見られる世界的観念を持つ古代神祇の伝承となっております。その藤原山蔭が祭祀の中心として祭ったのが京都神楽岡、後に言う吉田神社です。
吉田神社には、神楽岡の由来である神楽の源流が示されています。
元は鳴神(大雷・須佐之男)を地主神として祭っていた神楽岡に国家祭祀の中心を置くこととなり、古代より世界の中心の神「大元霊」や「エホバ」等の神柱が立ち神々が集い集まる所が世界の中心とされ、そこで世界の民達である神々が酒宴を催して、神様に捧げる舞として神楽を舞った事に由来します。
古事記に曰く、まず時代の日ノ出となる「岩戸」を開くために高天原において山蔭の始祖である天之児屋根の命が祝詞と言う祝い(褒め)言葉を作製して、その後、 天之細女命 が神楽を舞って世の中が明るく開いたと言う神事が神楽です。即ち神楽は中臣祓いと言う褒め言葉から始まる大自然を讃える伝承なのです。褒め言葉である祝詞の前文ある「高天原に神集まります」とは、小高い天の原っぱに世界の神々が集い集まり褒め称えた事から宴が始まることを表現しています。
平和とは和合すること、和合は褒め合って礼を尽くす事に極めて優れた姿があります。私達山蔭流創生神楽では、 和合礼道 と 敬神崇祖 を旨として祈りの形を実践で示しています。山蔭流創生神楽は古代人の伝承を元に、新な文化を創生する事に励み、子々孫々と繁栄の営みが繋がる様に、文化伝承と身体健全そして蘇り(御祓)の継承実践に創生神楽の立ち居振舞い呼吸法である起倨身体を鍛練して世界平和と祈りの実践に寄与して参ります。
山蔭神斎山蔭流創生神楽 宗家
山蔭員英